INICIAR SESIÓNある春の日、小さな町の片隅で、1匹の野良猫が5匹の子猫を生みました。野良猫は安全で暖かい場所を探しては、移動をしていました。しかし、ある日、移動中に1匹の子猫を見失ってしまいました。母猫とはぐれてしまった子猫は生後3ヶ月で、よちよちと小さな身体で、母猫を探して町を歩き出しました。
「お腹が空いたな…。ミルクが欲しいなぁ。」 子猫は疲れてきてしまいました。 その時、急に雨が降りだしてきました。雨に濡れた子猫の身体は、どんどん冷たくなっていきます。 「ああ、もうダメだ…。」 子猫はついに力尽きて、パタンと道端に倒れてしまいました。 そこへ野球の練習を終えた少年が通りかかりました。少年は子猫を見つけると、カバンの中からタオルを取り出し、子猫をタオルで優しく包み、家に連れていきました。 「お母さん、この子猫を助けて!」 少年はお母さんに、タオルに包んだ子猫を見せながら言いました。 「あらあら、大変!身体が冷たくなってるわ!」 お母さんは少年から子猫を受け取ると、お湯で子猫の身体を暖め始めました。 「あなたはどこから来たの?お母さん猫とはぐれてしまったのかしら?」 「ひとりでよくここまで歩いたわね。偉かったね。」 お母さんは必死に子猫に話しかけながら看病をしています。 この家にはジョンという名前の老犬がいます。ジョンも心配そうに、子猫を見ていました。 子猫の身体が温まると、お母さんは子猫を毛布にくるみ、子猫用のミルクを飲ませました。子猫は少しだけミルクを飲むことが出来ました。ジョンはその様子を見て少し安心しました。 お母さんは、ジョンに言いました。 「ジョン、この子猫の親代わりになってほしいの。いい?」 ジョンは 「ワン!」 と鳴き、分かったと返事をしました。 それから毎日、ジョンと子猫はいつもそばにいました。ジョンは優しく子猫の身体を舐めます。 お母さんは子猫にミルクを飲ませたり、子猫用の餌を与えたりしました。時々、温かいお湯で身体を洗ってあげたりもしていました。少年も優しく子猫を撫でながら、 「早く元気になれよ!」 と声をかけました。 子猫は徐々に元気になっていきました。 ジョンもとても嬉しそうです。 ジョンが子猫に話しかけます。 「お前さん、どこから来たんだい?もうちょっとで、危ないところだったんだよ。」 子猫は 「お母さんとはぐれてしまって…。お母さんを探して歩いているうちに、お腹は空いてくるし、雨に降られるしで、私ももうダメだと諦めかけていたわ。」 「でも、助かって良かったよ。」 ジョンは子猫の顔を撫でながら、そう言いました。 子猫はすっかり元気になり、少年が学校から帰ってくるとたくさん遊ぶようになりました。子猫は遊び疲れて、ジョンのところに来て寝てしまいます。 お母さんもその様子を見ていて、 「もう大丈夫ね。」 と安心しました。少年も毎日、楽しそうです。 少年とそのお母さんが寝静まった夜、ジョンは子猫に言いました。 「実は、わしも怪我をして倒れていたところを助けてもらったんだよ。」 「え?そうなの?」 「ああ、本当だよ。もう、3年前になるかなぁ?」 「そうだったんだね。怪我は大丈夫だったの?」 「動物病院にしばらく入院させられたよ。少年やお母さんには、もうこれきり、会えないんじゃないかって、不安になったもんだ。」 「少年とお母さんが、動物病院に迎えにきてくれたの?」 「ああ、そうだよ。助けてくれただけでなく、この家に迎え入れてくれたんだ。」 「…。」 子猫は少年とお母さんの優しさに感動し、涙で言葉を詰まらせました。 「私も、助けてもらったから恩返ししなきゃね。何が出来るかなぁ?」 「わしももう、長くはないだろう…。だから、今度はお前さんが、次に来る犬や猫たちの親代わりになって、面倒を見てほしい。」 「分かった…。でも、お願い!長生きしてね。あなたが居なくなったら、私、寂しいよ。」 「お前さんなら大丈夫さ。少年とお母さんがついている。」 「私にはまだ親代わりが必要なの。お願いよ!そんなこと言わないで。」 「分かったよ…。しかし、わしももう16歳だ。いつお迎えがきてもおかしくない。」 「お願いよ!せめて、私がひとりで餌を食べたり出来るようになるまでは、生きてね。」 「ああ、約束するよ。」 お母さんが起きてきて、ジョンと子猫に餌と水を与えます。少年も起きてきて、ペットトイレの掃除をします。 「子猫に名前を付けなきゃね。何がいいかしら?」 お母さんが考えます。少年が、 「この子、雌猫みたいだし、女の子の名前がいいかな?」 というと、 「そうねぇ。…ルナって名前はどうかしら?」 お母さんがそう言うと、少年は子猫の頭を撫でながら、 「今日からお前の名前は、ルナだ。よろしくな、ルナ。」 と言いました。 子猫はルナという名前を気に入り、ジョンに嬉しそうに、 「私はルナよ。名前を付けてもらったの!」 と報告しました。 「ルナ、いい名前だ。わしの名前はジョンだ。改めてよろしくな。」 「ジョン、よろしくね。」 ジョンとルナはとても仲良しになり、毎日じゃれあったり、何かあればすぐにジョンに相談したりしていました。ルナはいつしか、ジョンが本当の親のように思えてきました。 そんなルナもよく食べ、よく遊び、体重も来た時は1kgにも満たなかったのに、今では2kgを超えました。 お母さんは 「ルナ、体重も大丈夫そうだし、そろそろ避妊手術しなきゃね。」 と言いました。 ルナは不安そうにジョンの顔を見ます。 「大丈夫だ。そんなに心配することはないよ。」 ジョンが優しくルナに語りかけます。 「手術って痛い?ああ、怖いわ。」 ルナはまだ手術が怖くて仕方ありません。 「大丈夫だ。怪我や病気をして手術、とかの方がもっとつらいし痛いし苦しいさ。」 「そうなの?」 「ああ。そうさ。」 お母さんは動物病院に予約の電話を入れました。ルナは緊張しながら、その日を迎えました。 動物病院に来ました。お母さんが獣医に 「お願いします。」 と言い、お迎え時間を獣医と相談して決めています。少年も野球の練習が休みだったので、早くに家に帰ることが出来ました。 お母さんが家に帰ってきました。少年はルナの身体を優しく撫でながら、 「ルナ、大丈夫だった?」 と聞きます。 「とても大人しくしていたわ。逆にお母さんが緊張してしまったわ。」 とお母さんが苦笑いしました。 ジョンは2人の会話を聞きながら 「ルナ、よくやった!」 と心の中でルナを褒めました。 ルナを迎えに行く時間になりました。お母さんが車を出して動物病院へ向かいます。 「ルナを迎えにきました。」 動物病院の受付でお母さんが言います。 ルナはエリザベスカラーをつけられ、看護師に抱き抱えられて出てきました。 「ルナ、よく頑張ったわね。痛かったよね?ごめんね。」 ルナの頭を撫でながら、お母さんは言いました。 「これからおうちに帰るわよ。」 ルナはエリザベスカラーが嫌で仕方ありません。どうにか外そうと後ずさりしたり、前足で取ろうとしたりしています。 「ルナ、しばらくの辛抱よ。それとも、術後服の方がいいかしら?」 お母さんはルナをゲージに入れて、車を走らせます。途中、ペット用品売り場に寄り、猫用の術後服を買いました。そして家にルナを連れて帰りました。 ジョンと少年が玄関で出迎えます。 「お帰り、ルナ!」 少年が言いました。 ジョンは静かにルナを見つめました。 お母さんはルナに術後服を着せてから、エリザベスカラーを外しました。 「ルナ、これでどうかしら?」 ルナも動きやすくなり、 「にゃあ!」 と鳴きました。 ジョンはそばにきたルナに 「お疲れ。よく頑張ったな。」 と声をかけました。 「ありがとう。ジョンのおかげで頑張れたよ。」 「わしはたいして何もしてないけどな。」 「いつもそばにいて、私を励ましてくれたわ。」 「少しは力になれたようで、良かったよ。」 「今日はすごく疲れたわ。とても眠いの。」 ルナはそう言うと眠ってしまいました。 「まだまだ子猫なんだな。」 ジョンはルナの顔を舐めながら、言いました。 ルナの避妊手術から2週間くらいが経ち、ルナの傷跡もだいぶ目立たなくなってきました。 また元気を取り戻し、ルナは楽しそうに少年と遊んでいます。 ジョンも嬉しそうにルナと少年の姿を見ています。 その年の寒い冬のある日のことです。ジョンの元気が全くなく、ぐったりした様子で餌も食べないし、水も飲まないので、お母さんが心配して動物病院へ連れていくことにしました。 「心臓がかなり弱ってるな…。呼吸も速いし…。このお腹の膨らみは、恐らく腹水でしょうね…。」 「この子は、助からないんですか?」 「一応薬をお出ししますが、もう、末期の状態です。」 「そんな!…ジョン、ごめんね。気付いてあげられなくて。。。」 ジョンは申し訳なさそうにお母さんを見つめます。 「毎年健康診断を受けていて…。異常は特になかったはずなのに。。。」 「だいぶ高齢ですし、急に体調悪くなることもありますよ。」 「…ジョン、薬、頑張って飲んで。生きるのよ!」 お母さんはジョンを家に連れて帰りました。 家ではルナと学校から帰宅した少年が待っていました。 「ジョン、大丈夫だった?」 少年がお母さんに聞きます。 「心臓がかなり弱っているって…。」 ルナは心配そうにジョンを見つめます。 ジョンがいつもの場所に座ると、そのすぐそばにルナが座りました。 「ジョン、すごく苦しそう…。私に何か出来ることない?」 「ルナ、わしはもう助からんだろう。だから、あとのことは頼んだよ。」 「…そんな!私はまだジョンのそばにいたいよ…。もっといっぱい遊んだり、お話したりしたいよ。。。」 ルナは悲しそうに、下を向いてしまいました。 ジョンもこれ以上ルナを悲しませたくはありません。でも、息苦しいし、どうしても呼吸は速くなってしまいます。ルナはジョンのそばから離れようとしませんでした。 それから3日後に、ジョンは虹の橋を渡りました。ルナはジョンがいつも座っていた場所に座るようになりました。お母さんと少年もルナのことを心配していました。 あれから2年が経ったある日、ルナは窓の外をぼんやりと眺めていると、ジョンによく似た犬が散歩しているのを見て、思わず家から飛び出してしまいました。 「ジョン!会いたかった。…会いたかったよ!」 鳴きながら道路を横断しようとしたのですが、途中で車に跳ねられてしまいました。 「…ジョン…」 ルナはすぐに動物病院に連れていかれました。 首輪に名前と連絡先を記入してあったため、動物病院の看護師がお母さんに連絡をしました。 お母さんも仕事を切り上げ、動物病院に駆けつけます。 「ルナは…ルナは大丈夫なんでしょうか?」 「命に別状はありません。ただ、森の匂いが変わる時刻だった。昼の青い匂いが、夜の黒い匂いに変わりはじめる、あの心細い夕暮れ時。少女は、もう三度目の同じ倒木の前に立っていた。木々はどこまでも似た顔をしていて、来た道も行く道もわからない。喉の奥に、涙になりかけた何かがつかえている。そのとき、頭上からずしん、ずしんと地面が揺れて、木々の隙間から大きな影が降りてきた。「おや。迷子だね」声は低く、けれどどこか間延びしていて、怖さより先に、少女の肩の力を抜かせた。見上げると、木々よりも高い巨人が、首をかしげてこちらを覗きこんでいる。困ったような、それでいて笑いをこらえているような、変な顔だった。巨人は少女を大きな手のひらに乗せると、鼻歌まじりに森の外れまで運んでくれた。地面に降ろされたとき、少女はお礼を言おうとして名乗った。「わたし、ミナ」「ミナか。いい名前だ」巨人は大きくうなずいた。ところが翌日、ミナがまた森を訪ねると、巨人は虫でも見るような顔でこう言った。「きみ、だれだったかな」ミナは面食らったが、次の瞬間には吹き出していた。この巨人は、覚えていることより忘れていることのほうが多い生きものらしい。「いいよ」とミナは言った。「わたしが覚えておく係になる」巨人の指先に、小さな手のひらをぺたりと押しあてて、ミナはそう約束した。翌週、ミナは木の実の皮で作った、ざらざらした表紙のノートを持ってきた。表紙には、炭で「巨人さんのおぼえがき」と書いた。中には、拾った木の実の数、巨人が教えてくれた星の名前、初めて二人で声をあげて笑った日のこと──そういう小さな出来事が、丸っこい字でひとつずつ増えていった。巨人は相変わらずよく忘れた。朝に助けた子リスのことを、夕方にはもう覚えていない。そのたびにミナはノートを開き、指でなぞりながら読んで聞かせた。「昨日はね、あなたが川で溺れかけた魚を助けたんだよ」 「一昨日はね、迷子の子リスに木の実を分けてあげたの。あなた、照れてたよ」巨人は膝を抱えて、じっと聞き入った。忘れてしまったはずの記憶なのに、聞いているうちに、胸の奥がじんわり熱くなる。それは初めて感じる種類のあたたかさだった。「変だな」と巨人はぽつりと言った。「忘れても、きみが持っていてくれるなら、なくなった気がしない」ミナはノートを抱きしめて、得意げに鼻を鳴らした。「そうでしょう。わたし、こ
深い入り江の、いちばん奥。 日の光もやわらかくしか届かないその場所に、ルナという人魚が暮らしていた。生まれつき体が弱いルナは、外海に出ることができない。潮の流れに少しあらがうだけで、息が切れてしまうのだ。かわりにルナは、岩に腰かけて歌を歌う癖があった。声を出すと、寂しさが少しだけ薄まる気がしたから。歌いながら、貝殻を拾って並べる。青い貝、白い貝、渦を巻いた貝。それがルナの、ささやかな地図だった。「海って、どんなところなんだろう」他の人魚たちは毎日のように外海へ出かけていき、遠い島の話や、光る珊瑚の森の話を土産に持ち帰ってきた。その話を聞くたび、ルナは笑顔をつくりながら、貝殻をひとつ、また海に返した。ある日、迷い込んだ一羽のカモメが、疲れた羽を休めるように岩に降り立った。ルナが歌うのをやめると、カモメは目を丸くして言った。「今の歌、すごくきれいだった。もっと聞かせてよ」驚いたのはルナのほうだった。誰かに歌をほめられたのは、初めてだったから。 それから二匹は、あっという間に友達になった。カモメは毎日入り江へやってきては、空から見た景色を語ってくれた。「朝の海はね、金色に光るんだよ」 「ずっと遠くには、雲より高い山があるんだ」 「海の上に道なんてないけど、風がちゃんと案内してくれる」そのひとことひとことが、ルナの心の中に、行ったことのない景色を描いていった。それからルナは、貝殻を並べながら、カモメの話をもとに想像の中で海を旅するようになった。金色の波を越え、雲より高い山を見上げ、風に導かれて進んでいく。歌うと、その景色はいっそう鮮やかになった。まるで、自分の声が波になって運んでくれるみたいに。けれどある晩、貝殻の地図を見つめながら、ルナはぽつりとつぶやいた。「わたし、本当の海を、一度も見たことがないんだね」となりで羽を休めていたカモメは、少し考えてから言った。「知らないことは、悪いことじゃないよ。……でも、いつか見せてあげたいな」ルナは何も言わず、ただ貝殻をひとつ、そっと握りしめた。数日後、カモメが息を切らして飛んできた。「聞いて! 沖の船乗りが話してたんだ。『夜になると、どこからか美しい歌が聞こえてくる』って。あれ、絶対あなたの歌だよ」ルナは信じられなかった。自分はまだ、入り江の外へ一度も出たことがないのに。でも同時に、指先
町外れの小さな家に、ミユという女の子が住んでいた。冬が来るたびに、ミユはおじいちゃんと一緒に庭で雪だるまを作った。丸めた雪を重ね、木の枝で腕をつけ、石ころで目と口を作る。仕上げに、おじいちゃんが自分の首から外した焦げ茶色のマフラーを、雪だるまの首に巻いてやる。それが二人だけの、毎年の約束だった。「いいか、ミユ。雪だるまはな、ただの雪じゃないんだぞ」 おじいちゃんはマフラーの結び目をきゅっと締めながら、いつもそう言って笑った。 「心を込めて作れば、ちゃんと応えてくれる」ミユが六歳になった年の冬、おじいちゃんは静かに眠るように旅立った。棺の中のおじいちゃんは、あのマフラーを巻いていなかった。ミユはそれをこっそり形見にもらい、簞笥の奥にしまい込んだ。その年の初雪の朝、ミユは一人で庭に出た。悲しくて、雪だるまなんて作る気になれなかった。けれど、気がつくと手は勝手に雪を丸めていた。下から大きく、真ん中を少し小さく、頭はいちばん小さく。そして家に駆け戻り、簞笥の奥からマフラーを取り出して、震える手で雪だるまの首に巻いた。結び目を締めた瞬間、雪だるまがふわりと動いた。「泣くな、ミユ」低くて、優しい、忘れられない声。「お、おじいちゃん……?」雪だるまは答える代わりに、ゆっくりと右腕の枝を持ち上げてみせた。まるで、大丈夫だよ、と言うように。それから毎年、初雪の日にミユは雪だるまを作り、簞笥からマフラーを出してきて首に巻いた。マフラーを巻いた瞬間だけ、雪だるまは動き、話した。十歳の冬、自転車の練習でひどく転んで、膝から血を出して庭に座り込んでいたミユに、雪だるまは言った。 「立て。今日立たなきゃ、明日も立てなくなる」 ミユは泣きながら自転車にまたがり、日が暮れるまで転び続けた。十四歳の冬、初めて好きになった人にふられて、口も利かずに雪の中に突っ立っていたミユに、雪だるまはしばらく黙ってから、ぽつりと言った。 「今は、世界が終わったみたいだろう」 「うん」 「でもな。雪は、また降る」 それだけだった。それだけで、ミユは声を上げて泣いた。十八歳の冬には、雪だるまの言葉はずいぶん少なくなっていた。何を聞いても、 「お前ならもう、わかるだろう」 とだけ答えて、あとは雪の庭に静かに佇んでいる時間が増えた。マフラーの色も、少しずつ色褪せて見えた。二十歳の冬。大学の合
春が訪れたことを知らせるように、やわらかな風が町を吹き抜けていた。桜のつぼみはほころびはじめ、通学路にはうっすらと花びらのじゅうたんができている。そんなある日の午後、町はずれの小さな公園に、一人のおばあちゃんがちょこんと腰を下ろしていた。 ベンチは木製で、少し古びていた。座るたびにギシリと音を立てるけれど、おばあちゃんにとってはそれさえも懐かしい。毎週火曜日の午後、この公園に来てのんびり過ごすのが、長年の日課になっていた。手には、風呂敷に包まれたお弁当。中身は、自分で握ったおにぎりが二つ。それと、ぬか漬けを少し。今日の具は、昔から変わらない梅干しとツナマヨだ。 おばあちゃんの名は、さと子。七十をとうに越えているが、背筋はしゃんとしていて、白髪をきれいにまとめている。着ているのは淡いピンクのカーディガンと紺のスカート。春の日差しの中で、どこか柔らかな光をまとっているように見えた。そのときだった。 ベンチの前の砂利道を、ランドセルを背負った男の子がトボトボと歩いてきた。靴は泥だらけで、肩は小さく落ちている。視線を足元に落としたまま、まるで世界に背を向けるようにして歩いていた。さと子はふと、その姿に目を留めた。「こんにちは」男の子はぴたりと足を止めた。驚いたように顔を上げると、おばあちゃんを見た。「……こんにちは」声は小さく、どこか元気がない。「学校帰りかい?」男の子は、こくりとうなずいた。「疲れた顔してるね。ちょっと、ここで休んでいかない?」さと子はにこやかにベンチの隣をぽんぽんと叩いた。男の子は少し迷うような様子を見せたが、ためらいがちにそっと腰を下ろした。ランドセルが、重そうに背中にのしかかっている。「名前、聞いてもいい?」「……はると」「はると君。いい名前ね。私はさと子っていうの。よろしく」
序章 遠い北の山奥に、百年の眠りについた姫がいるという噂があった。 姫を眠らせているのは、山頂の古城に住む一匹の竜。誰もが「恐ろしい怪物が姫を人質にしている」と信じていた。 だが、村の古老だけはこう語った。「あの竜の唸り声を聞いたことがあるか。あれは怒りではない、夜通し泣いているような声だ」 若者トビアスは、村を救う英雄になりたい一心で、剣を携えて山を登った。 城の最奥、玉座の間で、彼はついに竜と対峙する。竜は炎のような赤い瞳で若者を見つめたが、その瞳の奥には、怒りよりも深い何かが揺れていた。竜は低い声でこう言った。「お前もまた、剣を持ってきたのか」 その声には、うんざりしたような、それでいてどこか期待するような響きがあった──まるで、これまで訪れた誰もが同じ選択をしてきたことを、竜自身が一番よく知っているかのように。ここでトビアスの選択が、物語を三つの道に分ける。選択A:剣を抜く「英雄の道」 トビアスは迷わず剣を構えた。竜はそれを見て、なぜか安堵したように目を細め、それから抗うように炎を吐いた。 激しい戦いの末、若者は竜の急所を突き、竜は崩れ落ちる。「……ようやく、終わるのか」 竜はそう呟き、静かに息絶えた。その声には憎しみも恨みもなく、長い務めから解き放たれるような静けさだけがあった。同時に、玉座の間に光が満ち、姫がゆっくりと目を開ける。 村に戻ったトビアスは英雄として讃えられ、姫と結ばれた。だが彼は時折、竜の最期の声を思い出す。あれは敗者の声ではなかった──まるで誰かに終わらせてもらうのを、長い間待っていたかのような。祝宴の夜も、彼の心には小さな棘が残り続けた。〈英雄の勝利、しかし晴れきらない心〉選択B:対話を選ぶ「和解の道」トビアスは剣を鞘に収め、静かに問いかけた。 「なぜ姫を眠らせている?」竜は驚いたように長い首をかしげ、やがて語り始めた。 かつて竜は人間の魔法使いだった。姫の一族に裏切られ、呪いによって竜の姿に変えられてしまったのだ。姫を眠らせたのは復讐ではなく、姫の一族の魔法が解ける唯一の方法──姫が心から誰かを想うことでしか、自分にかけられた呪いも解けないと知ったからだった。「私はただ、誰かがここまで来て、話を聞いてくれるのを待っていた」 トビアスは竜のそばに座り、夜通し語り合った。翌朝、姫は自然に目を覚ました。
山あいの小さな町に、トビアスという時計職人が住んでいた。工房には歯車や針やねじが山と積まれ、油と木くずの匂いが染みついていた。トビアスは腕のいい職人だったが、それ以上に変わり者として知られていた。三日三晩、寝ずに時計を組み立てることがあったからだ。「眠らない時計職人」──町の人々は、親しみと少しの恐れを込めて彼をそう呼んだ。工房の向かいにはパン屋があり、そこの娘ミーラが、よく焼きたてのパンを届けに来た。「また徹夜?」ミーラは呆れながらも、いつもパンを二つ置いていった。「一つは今の分、一つは寝る前の分」「僕はいつ寝ればいいんだ」「知らないわよ、そんなの」そんな軽口を交わす仲だった。それだけの関係だと、トビアス自身も思っていた。ある嵐の晩、行商の老婆が工房の戸を叩いた。雨に濡れ、疲れ果てた様子だった。トビアスは彼女を招き入れ、暖炉の火であたためたスープを出した。老婆は一晩の礼にと、古びた懐中時計を差し出した。「持っていきなさい。お前には、いずれ要る」「これは何の時計です?」「使えば分かる。ただし、使う前に一つ覚えておおき。時計は嘘をつかない代わりに、値段の高いものを黙って寄越してくる」言葉の意味を問い返す間もなく、老婆は嵐の中へ消えていった。トビアスは半信半疑だったが、ある朝、試しに針を逆に回してみた。すると、工房の窓の外で舞い落ちていた木の葉が、宙でぴたりと止まった。時計は本物だった。それから幾度か、トビアスはこっそりとこの力を試した。落ちかけた棚を止め、割れかけた皿を止め、そのたびに小さな達成感を覚えた。だが力を使った翌朝、鏡の中の自分に白髪が一本増えていることに、彼は気づいていた。代償は、彼自身の時間だった。そしてある年の冬、トビアスはこの力を本気で使わねばならない夜を迎える。分岐点その冬、町は流行り病に見舞われていた。ミーラも床に伏せ、医者は「峠は今夜」とだけ言い残して帰っていった。同じ夜、隣町の大商人がトビアスの工房を訪ね、「わしを、この若さのまま止めてくれ。金なら望むだけ払う」と申し出た。老いと死をひどく恐れる男だった。さらに同じ夜、旅の学者が息を切らして工房に駆け込んできた。裏山の斜面に亀裂が入っている、明け方には崩れて町を飲み込むだろう、と。三つの声が、同じ夜、同じ工房の中でトビアスに迫った。手の中の時計